2006年 06月 16日
東海道中膝砕毛 1日目 (日本橋~神奈川宿)
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5年後にはサンティアゴ巡礼の道を歩く。できたらピレネー山脈近くのサン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポールからではなく、パリのカルティエ・ラタンからつい先だって旅行したトゥール、ボルドーを経由してサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩き通したいと考えている。全行程の距離はどれくらいになるのか・・・研究不足のためにわからないが、おそらくは1500キロを軽く越える距離になろう。いきなりこの距離に挑戦するのは無理がありすぎる。そこで考えた。予行演習を別のもっと安易なルートで行おうと。
いくつかの候補が挙がったが、まずは東海道五十三次を歩くことに決めた。このルートは若い頃に挫折しており、いつかは雪辱を果たしたいと考えていたし、今のボクにはこのくらいの難易度が相応しいと思っていたからだ。
このルートを歩くに当たりぶっ通しで歩きたいところだが、いかんせん、いつもヒマヒマにしているボクにもイチオウは仕事がある。ヨーロッパ旅行の場合「仕事だかんね!ざけんなよ!」という本当だか嘘だかわからない名目があるので大手を振ってでかけることができるのに対し、「東海道五十三次」を歩くなんてのはいくら厚顔無恥のボクでも仕事だとは言い得ない。そこで、このプロジェクトは主に会社の休みの土日祭日に実行し、<やむを得ぬ事情>のとき、あるいは<事情が許す限り>、もしくは<天気が良いとき>に限って平日に実行することにした。<意味、わかりませ~ん!
というわけで、天気が良かったという理由が当てはまる某月某日の月曜日に記念すべきスタートを切ることにした。
いい忘れていたが、街道行脚の途中では司馬遼太郎氏の「街道をゆく」には遥かに及ばないが街道にまつわるたくさんの歴史的事象・事件から自分なりの考察を加えたり、池波正太郎氏の「散歩のとき何か食べたくなって」のように偶然見つけた美味しそうな店構えの店に突撃したり・・・まあ、小田実氏の「なんでも見てやろう」の精神で最後まで歩き通したいと考えている。
前置きはこれくらいにして、始めることにしよう。
目黒から東京駅まで山手線で向かい、そこから歩いて日本橋へ。
日本橋スタートは午前6時35分。さすがにこの時間帯に通勤してくる人々はまばら。いつもは人を掻き分けながらジグザグ歩行を余儀なくされる中央通りを大手を振って歩く。空はすっきりと晴れ渡り気持ちが良い。
空腹感があったわけではないが、ちょっとお腹に入れておいたほうが力が出るだろうと、京橋のコンビニで鮭のおにぎりを買い、歩き食いをする。コンビニのおにぎりって塩辛すぎる。汗をかいてないせいもあるかもしれないが・・・。 焼き鳥の老舗「伊勢廣」。もう何年も訪問していないが、京都まで無事に歩きとおせたらここで祝杯をあげよう!
新橋のあたりを歩いていると仄かに潮の香が漂ってくる。日中は排気ガスや飲食店からの臭いにかき消されてしまってわからないが、海がすぐそこにあることを感じさせてくれる。 品川駅に着いたのは8時23分。日本橋からの歩数は11032歩。1時間に7000歩のペースで歩きたいところ、この間は1時間6120歩。ちょっとダラダラと歩きすぎたようだ。ペースアップをしなければ・・・。
1万歩以上歩き通すとさすがにふくらはぎに疲労を覚えてしまいウイングにある「アートコーヒー」でコーヒーブレイク。(マックのアイスコーヒーのほうが安いのは知っているが、アメリカ産はどうしても好きになれないので。1杯270円) 日本橋から歩いてきた大きな第一京浜国道に八ツ山橋で別れを告げ旧東海道に入る。商店街には創業江戸時代?と思わせる木造の商店が立ち並び風情を感じさせてくれる。 品川宿本陣跡着は8時56分(ここまでの歩数 13336歩 所要時間 2時間21分)。 立会川にある蕎麦の老舗「吉田屋」。かねてから訪問したいと思っていた蕎麦屋だ。ちょっくら蕎麦を手繰りたいところだが、開店時間の11時まで1時間以上もあり断念。
蕎麦「吉田屋」(立会川):http://www.geocities.jp/yoshidaya44/
「鈴が森刑場跡」。重罪人が処刑された場所である。
時代劇ではたくさんの人が見守る中、罪人は火あぶりにされたり、磔にされたりする場面が出てくるが、当時は本当に現在もどこぞの独裁国家でされているように「公開処刑」だったのだろうか?磔の基礎石が残っているのを見るにつけ、まさにいま磔にされようとする町人姿の熊吉の悲鳴が聞こえてきそうで、早々にこの場を立ち去った。
鈴が森で旧道は終わり、再び単調な第一京浜国道を歩く。車の吐き出す排気ガスで喉がいがらっぽくなる。
梅屋敷を過ぎたころだろうか、信号待ちをしているといきなり、グサッ!と目に何かが刺さる。反射的に目を閉じたせいで事なきを得たが、刺客の正体は日傘である。思わず、イテッ!と叫ぶと、60代後半のおばさんが慌てて「あっ!ごめんなさい。お怪我はありませんか?」と尋ねられ、「いえ、だいじょうぶです。そちらこをお怪我はありませんか?」と答えてしまう。・・・あまりのお人好し加減に、その後しばらくは笑いが止まらなかった。もちろんその笑いは自嘲の笑いである。 平和島の旧街道にはこのように石製の椅子がある。ここまで歩いてきて日本の道路は車優先であることを痛感させられる。途中で疲れてもこのように座るところがほとんど無いのだ。いまどき流行りの「ジベタリアン」にでもなればよいが、トシがそれを許さない。(これからも日本の道路行政に対してのクレームが続出する予定) 「多摩川 六郷口」。江戸時代には街道沿いを流れる大きな川に橋をかけることは許されてなかった。橋があればそれを渡って一気に攻め込まれてしまうというのがその理由だが、ここ六郷は渡し舟で渡ったという。
少年時代、友人を募って多摩川べりで釣をしたり、野球ごっこをしたりして遊んだことがあるが、当時でも渡し舟が残っていた。当時では立派な橋が架けられており、そこを徒歩で歩くこともできたのに、なんで時代遅れの渡し舟があったのだろうか?今もって謎だ。 多摩川を渡り少し歩くと川崎の旧街道に入る。京浜急行川崎駅の南側を走る通りは、ボクの抱いている川崎とはイメージがぜんぜん異なっていた。(実は川崎は初訪問) 川崎は大きな宿場町だったようで本陣は3つある。そのうちの1つである「田中本陣」に着いたのは11時58分(日本橋からの歩数 29450歩 所要時間 5時間23分)。 川崎宿で昼餉にすることにした。このプロジェクトではなるべく江戸時代の旅人が食べたと思われる食事をしたいので、いちばん初めに見つけた蕎麦屋に入る。注文は「もりそば」(400円!)。注文してから1分も経たないうちに出てきたもりそばの汁に虫が浮いている。すかさず汁の交換をしてもらい食べたのだが・・・。ということで昼飯報告はオワリ。(笑)<★蕎麦行脚・その166> 「生麦事件」の現場。参勤交代で江戸に向かう島津久光公の行列を横切ったイギリス人数人に薩摩藩士が無礼であるぞ!と切りつけ、そのうちの1人が死亡、2人が負傷した事件である、程度の知識しかない。もしも久光公の兄である先代薩摩藩主斉彬公が生きていたら、幕末はもう少し形を変えたものになったのではないだろうか、西郷隆盛も違った道を辿ったのではないか、などという「IF」で塗り固めた考察をした。 五十三次を歩くに当たり「誰でも歩ける東海道五十三次」に載っている詳細な地図を携行した。これさえあれば道に迷うことはまずない。但し、「注意力が散漫でなければ」という前提を伴う。
横浜のランドマークが見え始めたころ、注意力欠如から道を間違えてしまい、あらぬ方向へと向かってしまう。道に迷うのは趣味と言い切ってもよいほどのボクでも、さすがに不安になり通りがかりの人に尋ねると、「この道を行ったら海におっこっちゃうぞ!」とかなりぶっきら棒なハマ弁(横浜弁)で怒鳴られてしまう。ここで1時間以上も時間をロスしてしまった。
何かの本で塩分が欠乏すると注意力が散漫になるということを読んだのを思い出し、普段は忌避している「アクエリアス」を一気飲み。 地図にはキリンの工場が過ぎたところで左折すると書いてあるところ、その前で左に曲がってしまったのだ。これも歩き旅の醍醐味である、などと思うほどの心の余裕はなく、ただひたすら「チェ」とか「ちきしょー」を連発していた。
この工場の併設レストランでピコさんが暑気払いと称してウサを晴らしている 宴会をされている。(「キリン横浜ビアレッジ ビアポート BBQガーデン 」をご覧あれ) 今日の目的地「神奈川宿」着は16時4分(日本橋から50963歩 所要時間 11時間29分)。初っ端からダラダラ行脚となってしまった。 神奈川から目と鼻の先の横浜駅まで歩き、そこから東横線、目黒線を使い自宅に帰り、即へたり込む。
★費用
交通費 450円(目黒~東京 横浜~目黒)
飲食代 1206円(もりそば400円、おにぎり136円、飲み物4本)
小計 1656円
★日本橋~神奈川宿までの距離 27.3キロメートル。(日本橋~京都三条大橋は492.1キロメートル)京都まであと454.8キロメートルもある。無事に京都に着いた暁には、京都郵便局から「ワレ、トウチャクセリ」と家族に電報を打つことにしたい。
いくつかの候補が挙がったが、まずは東海道五十三次を歩くことに決めた。このルートは若い頃に挫折しており、いつかは雪辱を果たしたいと考えていたし、今のボクにはこのくらいの難易度が相応しいと思っていたからだ。
このルートを歩くに当たりぶっ通しで歩きたいところだが、いかんせん、いつもヒマヒマにしているボクにもイチオウは仕事がある。ヨーロッパ旅行の場合「仕事だかんね!ざけんなよ!」という本当だか嘘だかわからない名目があるので大手を振ってでかけることができるのに対し、「東海道五十三次」を歩くなんてのはいくら厚顔無恥のボクでも仕事だとは言い得ない。そこで、このプロジェクトは主に会社の休みの土日祭日に実行し、<やむを得ぬ事情>のとき、あるいは<事情が許す限り>、もしくは<天気が良いとき>に限って平日に実行することにした。<意味、わかりませ~ん!
というわけで、天気が良かったという理由が当てはまる某月某日の月曜日に記念すべきスタートを切ることにした。
いい忘れていたが、街道行脚の途中では司馬遼太郎氏の「街道をゆく」には遥かに及ばないが街道にまつわるたくさんの歴史的事象・事件から自分なりの考察を加えたり、池波正太郎氏の「散歩のとき何か食べたくなって」のように偶然見つけた美味しそうな店構えの店に突撃したり・・・まあ、小田実氏の「なんでも見てやろう」の精神で最後まで歩き通したいと考えている。
前置きはこれくらいにして、始めることにしよう。
日本橋スタートは午前6時35分。さすがにこの時間帯に通勤してくる人々はまばら。いつもは人を掻き分けながらジグザグ歩行を余儀なくされる中央通りを大手を振って歩く。空はすっきりと晴れ渡り気持ちが良い。
新橋のあたりを歩いていると仄かに潮の香が漂ってくる。日中は排気ガスや飲食店からの臭いにかき消されてしまってわからないが、海がすぐそこにあることを感じさせてくれる。
1万歩以上歩き通すとさすがにふくらはぎに疲労を覚えてしまいウイングにある「アートコーヒー」でコーヒーブレイク。(マックのアイスコーヒーのほうが安いのは知っているが、アメリカ産はどうしても好きになれないので。1杯270円)
時代劇ではたくさんの人が見守る中、罪人は火あぶりにされたり、磔にされたりする場面が出てくるが、当時は本当に現在もどこぞの独裁国家でされているように「公開処刑」だったのだろうか?磔の基礎石が残っているのを見るにつけ、まさにいま磔にされようとする町人姿の熊吉の悲鳴が聞こえてきそうで、早々にこの場を立ち去った。
鈴が森で旧道は終わり、再び単調な第一京浜国道を歩く。車の吐き出す排気ガスで喉がいがらっぽくなる。
梅屋敷を過ぎたころだろうか、信号待ちをしているといきなり、グサッ!と目に何かが刺さる。反射的に目を閉じたせいで事なきを得たが、刺客の正体は日傘である。思わず、イテッ!と叫ぶと、60代後半のおばさんが慌てて「あっ!ごめんなさい。お怪我はありませんか?」と尋ねられ、「いえ、だいじょうぶです。そちらこをお怪我はありませんか?」と答えてしまう。・・・あまりのお人好し加減に、その後しばらくは笑いが止まらなかった。もちろんその笑いは自嘲の笑いである。
少年時代、友人を募って多摩川べりで釣をしたり、野球ごっこをしたりして遊んだことがあるが、当時でも渡し舟が残っていた。当時では立派な橋が架けられており、そこを徒歩で歩くこともできたのに、なんで時代遅れの渡し舟があったのだろうか?今もって謎だ。
横浜のランドマークが見え始めたころ、注意力欠如から道を間違えてしまい、あらぬ方向へと向かってしまう。道に迷うのは趣味と言い切ってもよいほどのボクでも、さすがに不安になり通りがかりの人に尋ねると、「この道を行ったら海におっこっちゃうぞ!」とかなりぶっきら棒なハマ弁(横浜弁)で怒鳴られてしまう。ここで1時間以上も時間をロスしてしまった。
何かの本で塩分が欠乏すると注意力が散漫になるということを読んだのを思い出し、普段は忌避している「アクエリアス」を一気飲み。
この工場の併設レストランでピコさんが暑気払いと称して
★費用
交通費 450円(目黒~東京 横浜~目黒)
飲食代 1206円(もりそば400円、おにぎり136円、飲み物4本)
小計 1656円
★日本橋~神奈川宿までの距離 27.3キロメートル。(日本橋~京都三条大橋は492.1キロメートル)京都まであと454.8キロメートルもある。無事に京都に着いた暁には、京都郵便局から「ワレ、トウチャクセリ」と家族に電報を打つことにしたい。
by fuanita-tekuteku
| 2006-06-16 13:26
| 東海道中膝砕毛